こちらは、大阪市は港区に設けた、個人で経営する学習塾。いわゆる私塾です。
主に小・中学生を対象としておりますが、高校生の英語科の指導、高校卒業生や、一般・社会人の方の学び直しも併せて、広く塾生を募っております。
塾の本分とは、学校が賄いきれなかったところを補い、学校という場を活かすべく、その後ろ盾となること、と考えます。
週に何度も塾に通い、学校が終わってからも、勉強漬けになるような有り方には、歩み方も考え方もさまざまであり、無論、尊重はされるべきですが、個人的には、賛成は致しかねます。
当方には、机に向かう量をむやみに増やして、そうすることで、ともかくはテストで点数が取れる人を仕立て上げる、といった構想はありません。
分からないところを、分かるように、分かるまで。
工夫を凝らしながら説き明かして、学校の授業が分かるように導きます。
また、学問の面白さ、それに携われる喜びに気づけるよう、道案内をします。
学校の授業が分かるようになれば、放課後をむやみに勉強漬けにしたりせずに済みます。
学問の面白さに気づくことは、自ら学ぼうとする姿勢へと繋がります。
そうなるよう、先に立って導きます。
当方が目指す行き先は、他でもありません。
学校で過ごす時間を、より豊かで、いっそう値打ちのあるものにまで高めることです。
子供という時期に、放課後に友達と思う存分、好きなことを好きなように、伸び伸びと遊ぶことは大事です。
子供のうちにしかできない遊びも少なくはなく、それらは勉強に負けないくらい貴い体験です。
後から取り返しも付かず、決して蔑ろにされていいはずはありません。
また、子供たちに、十分にそうさせてやれているということは、そのまま、その国が、その街が、それだけの徳を備え、成熟していることの証であると考えます。
学校の授業で分からなかったところ、卒業はしたけれど、分からないままでいるところ。
そういったところを、分かるまで、分かるように導きます。
分からないこと、できないことを習うとき、まずは、先を行く人の背中を見て、その話に耳を傾け、その真似をすることから、すべては始まります。
猿真似という言葉もありますが、でも、そうやって私たちは、日本語という難解な言語も、お箸の使い方も、自転車の乗り方も、我が物にして参りました。
見よう見まねで、真似をするうち、土台となるものが築かれるのでしょう。
できなかったはずのことが、いつの間にか、できている。
人の体に秘められた力の不思議さに驚き、底無しの可能性を想う瞬間の一つです。
学校の授業が分かるようになり、足踏みをしていたところから、その先へと進み出す、その為の力添えをすること。
学校という空間が、より開けたものになり、新たな自信が、また一つ、また一つと芽生えていくよう、力を尽くして、後押しをしたく存じます。
分からないところを気軽に質問ができて、そして分かるようになりたい。
そんな当たり前の声に応えられる、確かな場を拵えたい。
それが、この塾の原点です。
「気楽に質問ができ」て、学問の「面白さに気づける」場所。
そういうものを、どこまでも追求して参ります。
当方は、テストの点数を上げることを謳い、その約束をし、契約を交わすものとは、一線を画します。
私たちの身の周りは、謎や、未知なるもので、満ち溢れています。
それらは、学問によって、私たちに発見されたり、解き明かされたりする時を、今か今かと、息を潜めて待ち受ける、秘宝さながらのもの。
この世の中は、そんな宝が山となって眠る、大きな宝の島であり、学問とは、宝探しそのものだと考えます。
学問は、しかしながら、机の上でのみ行われる、特別なものではありません。
暮らしの中の至る所、学問の機会は、ちりばめられています。
例えば、私たちは人に出会い、その人と触れ合ううち、その「生い立ち」や、これまでの「歩み」がどのようなものであったかを、知りたいと望むようになります。
その発する「言葉」に向き合い、その裏に隠されたものを「想像」し、「読み取ろう」として想いを馳せ、そこから「推理」される物事を「証明」すべく、筋道を立てて「論理」を推し進め、その人をもっと「知ろう」とします。
しかし、そこには確かに「歴史」「国語」「数学」といった、学問の営みがあります。
勉強が嫌いだと公言する学生を初め、卒業して学校を離れた人も、働いて、数学の教科書は見なくなった人も、誰もが皆、我知らず、それも自ら進んで、実は学問に携わり続けていることを、改めて思います。
また、「なぞなぞ」や「クイズ」「パズル」といった遊びがありますが、これらを嫌いだとする人は、私の知る限り、未だ見かけたことがありません。
それは、私たちの中に「知的好奇心」というものが等しく備わっており、私たちが「思考すること」を好み、そこに「喜びを見出す」生き物であるという何よりの証です。
「クイズ」は、学問における知識そのものであると言えますし、「パズル」は、数学そのものであり、「なぞなぞ」は、知識だけでも、思考力だけでも及ばない、柔軟で、行き渡った総合力を求められる、学問の集大成と言うことができるでしょう。
勉強は、すなわち学問。
勉強という言葉を敢えて避けるのは、「学」び「問」い掛けることは、もともと、「勉」めるものでも、「強」いられるものでも、そのどちらでもないからです。
無理を押して取り組むものではなく、自ずと湧き出ずる、泉のようなものであると考えます。
勉強を、「勉強」にしているのは、学校教育と言えますが、その学び舎が、その一身に背負う負担の大きさを棚に上げて、論ずることはできません。
一人一人、みんな違っている個性を、ひとつの集団として率いなければならない。
そんな枠組みの中で、取り決められただけの分量の学問を、定められた水準で、一定の期間に、みな等しく修めさせなければならない。
そういうことになっています。
「詰め込み」「脱落」「勉強嫌い」は、そこから生じる、必然ということができます。
「面白いから学ぶ」という、「学びの原点」が見えなくなりがちな今、それを取り戻す場所を、どこまでも追い求めて参る所存です。
分からないでいることが明るみに出ることで、人から蔑まされたり、分からないと、人に教えを請うことで、相手を困らせたり、疎んじられる羽目になった、などということは、誰しも身に覚えがあることだと思います。
結果、分からないことは「恥ずかしいこと」、問い掛けをする人は、「程度が低い人、厄介者だと見なされる」として、受け止めてしまう。
そうして、人に尋ねたことをさえ悔やみ、軽蔑されることを怖れ、分かったふりをして、ひとりでに生じる「知りたい」「明らかにしたい」「なぜ、どうして」の想いを、頭の片隅へと押し遣り、諦めて、無かったことにしてしまう。
結果を求められる現場において、ありがちなことですが、ありがちとして、済ませてしまっていいはずもありません。
また、受験やテストの結果が、何より優先され、尊重される現実では、「得点には結びつかない」学問上の「疑問」や「つまづき」は、「効率的な学習」の「妨げ」であると、忌避されがちになってはいまいか。
「不要なもの」「無用のもの」「不都合なもの」として敬遠され、蔑ろにされてはいまいかと危ぶみます。
学問の本質は、しかしながら、実はそういったところにこそあり、私の知る限り、勉強が後れているとされる児童・生徒ほど、この本質的なところを目敏く嗅ぎつけています。
しかし、そこで直面した「なぜ」に対して、学校においても、家庭で家族に訊いても、その答えが得られない。
そのまま、いつまでも足踏みを続けて、結果、周りより「後れ」てしまう。
このような場合は、決して少なくないと考えます。
ですが、それも、無理もありません。
この本質的な領域というものは、そもそも、児童・生徒のみならず、教師にとってさえも、相当に難易度の高いものであり、この辺りの取り扱いをどうするかを巡って、これまでにも、教育者の間で、幾たびも議論が戦わされて来たほどです。
これに対して、本質的な部分については、深入りせず、「割り切っ」て考えたり、「先送り」にしたりするなど、上手く折り合いを付けた子供らは、後れることなく、授業に付いて行くことができます。
「要領よくする」ことは、世を渡る上でも必要であり、そのように導くことも、時に、指導者には求められるということ。
それは否めません。
しかし、「何故」「どうして」と、物事の核心を見据える、そのような姿勢や態度が、教育の場で「不要なもの」「無用のもの」である、とされているとしたら、とんでもない。
もしも、そんなものが「勉強」だと言うなら、「やる気になれない」「何の為にするのか分からない」となるは必定、子供たちの言い分のほうが正しい。
小さくて、消え入りがちで、けれど、とても大事な、学び習う者の、こうした問いかけの声。
これに応えるべき場所を創り、それを守っていかねばならないと考えます。
学問は、その人の一生の財産になるもの。
どこが、どのように分からないか。
どのあたりに難しさがあるのか。
授業は、塾生と話し合いながら、共にそれを確かめ合いながら進めるといった構えで行います。
ぜひ、ご検討下さい。
教材は、当方指定の教科書準拠テキストを使用したり、塾生の習熟度に合わせて、オリジナルのプリントを作成し、それを採用したりします。
教科書の内容を確実に身に付け、確かな学力を築きます。
対策を講じるのは、やはり早い段階であればあるほど、有効であることは、確かです。
学習塾に通うのも、時期は、無論、早いほうが有利と言えます。
いずれにせよ、大きな問題の一つとして、塾に入った時点で、学習の進捗が遅れている場合、日頃の学校の授業についていくことと、後れを取り戻すことを両立させなければならず、その後れが大きくなればなるほど、その難しさもまた増していく、ということが挙げられます。
しかし、通常の教材を、通常の順序で、片っ端から取り掛かっていては、時間の都合上、どうしても無理が出てくることになります。
それではと、少々、手をつける順番を操作したところで、指導する側も、指導を受ける側も、遣り辛いばかりで、なかなか効果が望めません。
こうした問題において、鍵を握るのが、特別に用意された、オリジナルのプリント教材だと考えます。
できていないところだけを取り上げ、配合し、巧みに構成されたプリントのイメージです。
これにより、全体としての大きな流れ、要所を手早く掴み取ることができるようになり、後れをとった学校の授業に、早い段階で、再び付いていくことを可能にするというものです。
一人ひとりの状況に合わせたものを用意することは、簡単なことではありませんが、このような場合に対応する、極めて有効な手段であると考えております。
研究中の段階には留まりますが、早期実用化に向け、取り組んでまいります。
最後に。
先に述べた通り、当方では、テストの得点を上げたり、難関校の受験に合格させることを、目的とはしておりません。
ただし、テストや試験といった節目と、どう向き合うのか。
これはこれで、一つの学びとして、もちろん、力を注いで支援して参ります。
また、進路の問題については、私塾としての領分がありますが、ただ、どのような道を目指すにせよ、
「自分には無理」
勝手にそう思い込んで、自ら線引きをして、自らの可能性を狭めてしまうようなことだけは、して欲しくありません。
それは、あまりに愚かしく、もったいなく、つまらないことです。
そもそも、子供に、そう仕向けるのは、いったい何ものか。
何が、そう思わせるのか。
無論、私も含め、周りを取り巻く、大人が一人一人、よく考えてみなければならないことだと思います。
「何かを為したい」
「自分にだって、できる」
「他の人にできて、自分にできないはずがない」
そんな影響を与える人にならねばならない。
そう自身を戒めながら、これからも邁進して参ります。
授業日の日程については、前月の25日頃に以下の通り、当サイト内で、翌月の予定を公表致します。
その予定を確認の上、1ヶ月分の出席予定を、ご申告いただきたく存じます。
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